やっぱり、テクニックじゃないよなって思ったのだ。
上手いとか下手とかじゃなくて
やっぱりその人の感情が乗っかっている文章って
どこか響くところがある。
ブログなんて書いてると、たまに
もっと色々な人に読んでもらいたいなぁって
思ったりもするわけですよ。
そんで、たまに「こうすればアクセス数が増える5つのこと」
とかなんちゃらかんちゃらな記事みたいなものに
フラフラ~っとなびいてみちゃったりして読んじゃったりするわけ。
弱い人間だからさぁ。
でも、なんかやっぱり違うよなって。
そもそも、誰かの為に書いている訳じゃないよなって。
もちろん自分の為に書いていることが
誰かの為になればいいなっていう思いはあるけれど
自分が自分の為に書いている。
やっぱりそういう根幹の部分を変えてしまっては
何の為に書いているのか分からなくなると思う。
今の世の中って限りなく便利になっているから
パソコンの検索画面で検索したら、なんというか
表層の部分はいくらでも掬えると思う。
テクニックとか小手先のやり方とか
色々と出てくる。そりゃあ、もうめっちゃ出てくる。
ブログをするにしたって
それで稼ごうと思えば、やり方だっていくらでもあるんだろう。
でもなんでそういうことをしないのかと考えたら
それで稼げたとしても、面白いと思わないからだと思う。
そもそもなんでブログ書いてるのって聞かれたら
書きたいと思ったから、なわけで
稼ぐために書いている訳ではない。
(そりゃあ、稼げたら嬉しいけど)
テクニックなんてクソくらえだ!!
本当にノイズが多いよなって。
こうすれば〇〇!とか〇〇する為にまずすべき7つのこと
とかこういう情報で溢れているよね。世の中は。
なんかもうウンザリする。
上手くやりたいんじゃないし、型にはまりたいわけじゃない。
例えそれで上手くいったとして、結局何が残るんだろうか。
何を良しとするのかは人それぞれだし
自由だから良いのだけれど、少なくとも僕は
虚しくなるような気がする。
自分の考えを、感情を
自分の言葉に乗せて放つから
楽しいのであって
喜びがあるのであって
それがなくなってしまったら
何の意味もないのだと思う。
僕たちはマリオネットじゃない。
自分の操作方法を誰かにゆだねてしまった瞬間から
大切な部分が腐っていくような気がする。
自分の大切な部分を見失ってはいけないのだと思う。
そんな時に思い出したのは、茨木 のり子さんのこんな詩だ。
「自分の感受性くらい」
ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて
気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか
苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし
初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志しにすぎなかった
駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄
自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ
今のようなスピード社会
情報過多な時代だからこそ
どこまでも自分として生きていく
そういう感覚が大切なのだと思う。
love yourself
軽やかに生きよう