こんにちは、アツシです。神戸に行くならこの人には会いたいなっていう友達に会ってから考えていたことがあって。それは
なんでこの人に会いたいと思うんだろう?
ってことなんですけどね。そんなことをここ何日間か頭の片隅に置きながら生活をしていました。
こんなにも沢山の人がいる世界で、何をよりどころに人は誰かに惹かれるのだろうか。その理由は人それぞれだと思うのですが、自分なりにピンっとくる言葉が見つかりました。
自分のために生きる
僕が触れ合ってみたいなと感じる人は、職業とか年齢とか性別とか関係なく自分のために生きている人、または自分のために生きたいと願っている人だなと思ったんです。
自分のために生きるっていうのは、自分の人生の決定権を自分に持たせてあげるっいうことかなぁって僕は思っていて。
だから、自分のために生きるっていうことは何か特別なことをする必要はまったくないし、今いる環境の中でも自分の考え方1つでできることだと思うんです。
発信すること
僕が惹かれる人、会いたいなと感じる人に共通していることがあるなと思って。それはなんらかの形で自分の想いを発信している人だということなんですね。
冒頭で出てきた神戸の友達は絵を描いているんだけどやっぱりそれを自分から発信しているのね、世界に向けて。
大げさに言うと発信しているから目に留まる訳だし見つけ出すことが出来る。世の中にはたくさんの情報が溢れているけれど、発信する手を止めなければそこにはあらゆる可能性があるのだと思う。
発信って言うとスケールが大きく感じるけれど、視点を変えると身近にいる人に「絵を描いてるんだ」って言う事と一緒なんだと思うんです。どんな人でもそんな一言、一歩からはじまっているのだと思う。
未熟でも未完成でもいい
その友達にしたって、今の自分の絵が完璧だって思っている訳じゃなくって。それでも自分がどこまでやれるのか、そんなことを考えながらとにかく絵を描いているのだと思うんです。
僕がこうやってブログを書いているのだって、自分の正直な気持ちや疑問、日々を過ごす中で感じることを書きたい!表現したい!と思っているから書いている訳で。
文章を書くのが上手いからとか、特別な才能があるから書いている訳じゃないわけで。
そんな僕のブログでも、発信し続ける中で読者になってくださる方がいたり、おもしろいですねって声をかけてくれる方がいたり。ブログを書きはじめたころは毎日アクセス数0の文字が並んでいたけれど、そこでやめていたら今の人たちとは出会えなかったわけで。
そう考えると、発信をする中での副産物?というか思いもしなかった出会いこそがかけがえのないものになったりするのかなぁって思うんです。
完璧な準備なんていらない
全てが整ってからって考えていると、せっかくの種火が消えてしまうのだと思う。足が動かなくなってしまう。ありきたりな言葉だけど走り出す時が一番エネルギーが必要なんだ。見る視点や立場が変われば、完璧なんて限りなく難しいのだからダサくても、下手でもまず走り出すこと、そして走りながら進化していけばいいのだと思う。
心が動く
自分のために生きている人に触れると、こちらまで嬉しくなることがしばしばある。それはシゲキックス(もう知らない若者とかいるのかな?)のような強い刺激ではないのだけれど、心にゆっくり広がってくる、言わばししおどし的な心地良さだ。
そういう人に触れると心が動くのは、誰もが自分の心の奥底に抱えている自分のために生きたいという願いが揺さぶられるからなのだと思う。
そんなことを考えている中で出会った本に素敵なことが書いてありました。大学生の頃に読んだことがある裸でも生きるの著者、山口絵理子さんの自分思考の中の一節
心が感じることを、頭が感じることよりも、大事にするという、心が感じることに頭でフィルターをかけない感覚が、私は重要だと思う。
客観的な意見に人はついていくんじゃない。正しいかどうかわからなくても。そして、おかしくて未完成であっても、とびきり強い主観に人は引かれ、人が集まる。
自分を評価できるのは、自分自身だけなんだ。他人から見える部分は、ほんの一部で、一番近い恋人や家族さえも自分を理解している部分は、もちろん他人だから100パーセントにはどうしたってなれない。
大事なのは自分を持つこと。人の意見を聞きながらも最終的に、判断するのは自分という、個を持ち続けること。
結局自分の人生のすべての責任は自分が負うということ。
自分の人生の責任は自分が負うということ。
すごく当たり前のようだけれど、自分の頭で考えて、自分の感性で世界を感じて、自分で自分の人生を切り開いていく。
そういうことが大切なんだと思う。
love yourself first
軽やかに生きよう